公益財団法人三島海雲記念財団
Mishima Kaiun Memorial Foundation
三島海雲は、1962年(昭和37年)84歳のときに、自らの現有全財産を投入し、それまでの人生経験で培ってきた信念を持って本財団を設立いたしました。財団設立について、第1回理事会・評議員会における三島の発言を引用いたします。
お釈迦さまは『一切の行為の功果を有するものは、唯私欲を離れし根本より生ずる』といわれた。私はこの言葉を十代のときから知っているが、久しい間、この言葉の持つ真の意味を知らなかった。それが数年前にようやくにして、この言葉の意味を知った。そして実行に移したのが、財団の設立である。
私は現在、何不自由ない環境にある。そしていま思うことは、“どうか、この日本という国が、将来ともにますます立派な国になってほしい”と、こい願うことだけである。この私の願望に対して、ささやかながら、私のできることはないか、これをお釈迦様の言葉に照らして考えた。
私が今日あるのは、先輩、友人、知己、さらには国民大衆の方々の惜しみないご声援によるところのものであると思った。したがって私の得られた財物は、ひとり三島海雲の私するものはない。あげて社会にお返しすべきものである。そして、お返しする方法として、財団を設立することが望ましいとした。
これからの世界は、学術の競争、知力の競争の世界である、知力の競争とは、すなわち立派な学者をつくることである。また、私のいう学術とは、自然科学のみでなく、それを支える“良識”すなわち人文科学を含むとする。ここに三島財団の特色がある。
本財団の基本金は極めて僅少である。しかし創立者三島海雲の現有全財産を注入したものである。
その狙うところは、私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及に在る。広野に播かれた一粒の麦になりたいのである。
昭和37年7月7日
設立発起人代表 三島海雲
設立者の設立の趣意は前記のとおりであるが、下名らの立場に於いて少しくこれを敷衍しておきたい。
三島海雲氏は、明治11年7月2日、大阪府下萱野村の教学寺という真宗の貧しい寺に生まれた。長じて京都西本願寺文学寮に学び、卒業後ただちに、英語教師として、山口の開導教校に赴任したが、教師はその希うところでなく、やがて風雲に乗じて北京に渡った。
時は日露戦役の直前であった。で、開戦後は蒙古に入り、側面から日本軍の行動に協力した。かくて、終戦後も蒙古に止まり、日清両国の経済提携を旗幟として、緬羊の牧畜を企画し、着々これを実行に進めた。然るに清国は、三島氏のこの挙を目して、日支条約に違反するものとなし、却って之を買収するの挙に出た。
やんぬるかな、三島氏は涙をのんで帰国した。が同時に、かねて着目した蒙古の酸乳の改良に踏みきった。そこには名伏しがたい困難があった。苦杯また苦杯、それを忍びながら、大正6年ついに、その嗜好飲料化に成功した。カルピスの誕生である。
まことに、カルピスの成功は、三島海雲氏の世界観の勝利であり、それに発する信念の凱歌である。
孔子の世界観は「一以て之を貫く」という信念に結晶しているが、これは如何にも明治の人らしく、「お国のため」という国士的な裏づけが感じとられる。
光栄ある日本の建設は、自然科学と人文科学の研究普及を焦眉の急務とする。従って、その機関や研究者に対する援助が喫緊の要請となる。
この要請に応えるため、三島氏はその私財を投じて、些かでも日本国繁栄の礎石になろうと決意し、それが三島海雲記念財団の設立となった。
本財団がその活動により、わが国学術文化の向上、国民生活の充実に一燈を寄与しうるならば、設立者の本懐は達せられる。
昭和37年7月7日
財団法人 三島海雲記念財団
設立発起人 山田 三良
同 天野 貞祐
同 栗田 淳一
同 川西 実三
同 坂口 謹一郎
同 中山 仙造
同 吉川 幸次郎
同 向井 忠晴
同 中道 健太郎