三島海雲について
- 1878年 (明治11年)
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7月2日 大阪府萱野村(現箕面市)で
生まれる生家 教学寺
- 1893年 (明治26年)14歳
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杉村楚人冠との出会い
京都西本願寺文学寮予科2年に入学 生涯にわたって
親兄弟以上の関係となる杉村楚人冠(広太郎)の教えを受ける文学寮時代の三島海雲17歳
杉村楚人冠
(明治38年 1905年)杉村楚人冠は、その後ジャーナリストとして東京朝日新聞で
活躍するとともに、新聞事業の近代化に功績を残した
- 1899年 (明治32年)20歳
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文学寮を卒業 山口県開導中学赴任、英語教師となる
英語教師時代の三島海雲
- 1901年 (明治34年)22歳
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東京仏教大学3年に編入学
- 1902年 (明治35年)23歳
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中国大陸に渡る
仏教大学を中途退学 中国に渡り、北京東文学社(主宰 中島裁之)の教師となる
- 1903年 (明治36年)24歳
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日華洋行設立
東文学社で出会った友人、土倉五郎と協同し、
北京で貿易商 日華洋行を設立日華洋行の正面玄関
土倉五郎は奈良の山林王 土倉庄三郎の五男
- 1904年 (明治37年)26歳
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運命の地 内モンゴルへ
蒙古(内モンゴル自治区克什克騰旗)に入り酸乳、馬乳酒等の発酵乳に出会う
28歳の三島海雲
三島海雲(右端)と鳥居龍蔵博士(中央)
(明治40年 1907年)
- 1905年 (明治38年)27歳
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蒙古にて牧場経営を始める
- 1907年 (明治40年)29歳
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羽田 亨との出会い
東京で野村礼譲(文学寮同窓)の紹介で、その後一生の理解者となる
東京帝大生 羽田亨と出会う羽田 亨博士
(昭和29年1954年)羽田亨博士は、中央アジア,西域文明研究に新分野を開拓した
東洋史学者 京都大学総長
- 1908年 (明治41年)30歳
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後に京都大学東洋史学講座創成に尽力した桑原隲蔵博士、
矢野仁一博士らの東モンゴル踏破の旅を案内する。
この旅の記録は、桑原隲蔵著『考史遊記』に記されている北京東直門を出発する一行
活仏アオハン(中央)と三島海雲
桑原隲蔵博士、矢野仁一博士はいずれも日本を代表する
東洋史学者 京都大学教授
- 1909年 (明治42年)31歳
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大隈重信伯爵の薦めで、内モンゴルにて綿羊の改良に着手
大隈重信伯 (国立国会図書館
近代日本人の肖像)内モンゴルでの綿羊事業
北京での三島海雲(前列左端)
桑原隲蔵博士(前列中央)
矢野仁一博士(後列左から二人目)